アール・ブリュット・ジャポネ展

以前のブログでも書いた「アール・ブリュット・ジャポネ展」。
今月15日まで、埼玉県立美術館で開催されています。
これらの作品は “100%自分のため” に描かれた・つくられたものたちだと思います。
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太郎のことば

生誕100年 岡本太郎展 に行ってきました。
「芸術は爆発だ」と語っているように、作品はどれも有機的でエネルギッシュでした。
それと同時に、“さらり”とした印象を受けました。なぜだろう?
展示の最後に、“太郎のことば”が書いてあるクジのようなものをひけるのですが、ことばのほうが、熱いかもしれない。。。
う~ん、なるほど~と思える言葉だったので紹介します。
いのちを賭けて
運命と対決するのだ。
その時、切実にぶつかるのは
己自身だ。
己が最大の味方であり、
また敵なのである。
出典:『自分の中に毒を持て』青春出版社
ハンス・コパー展

先日、「ハンス・コパー展/20世紀陶芸の革新」に行ってきました。
削ぎ落とされたうつわのフォルムからは精神性と、先史時代の土器のような力強さを感じました。うつわは静かにでも絶対の存在感で悠久の時を生きているようでした。
ハンス・コパー(1920-1981)は、父親がユダヤ人であったため、ドイツからイギリスに亡命。戦時中は敵国人としてカナダの収容所に入れられ、その後もイギリスで兵団としての厳しい労働、除隊後もいくつかの職業を転々とし、若い頃の生活は苦しかったようです。
その後ルーシー・リーの工房で働くようになり、陶芸の制作を始めるようになってすぐにその才能を現し、ルーシーとの共同制作を経て、独創的で傑出した作品をつくりあげていきます。
教鞭をとっていたロイヤル・カレッジ・オブ・アートでは、生徒たちにつねに「どうやって、の前に何故」つくるのかを問いかけていたそうで、「陶芸とは何か」その本質を追究する姿勢がうかがえます。
1975年、55歳の時に筋萎縮性側索硬化症と診断され、不自由になりつつある体と闘いながらも、ひたすら作品をつくり続けたそうですが、作品からは体の自由が失われているとは思えませんでした。
コパーが、ヴィクトリア&アルバート美術館における展覧会カタログに寄稿した文章(1969年)が、今回の展示で配られていました。心にじわじわと入ってくるものがあったので、以下書き写します。
王朝誕生以前のエジプトの器、私の手の大きさでやや卵形の:何千年も前に、おそらく奴隷の手によって作られ、色々な意味で生き抜いてきた。つつましく無抵抗で、どことなくこっけいな-しかし力強く神秘的で官能的だ。
何かを伝えるのではなく、自己表現をするわけでもないが、しかし作り手とその生きた時代の人間世界を内包し映し出しているように見える。微かな力で、そして敬意を込めて。「人間」によって作られた完璧に無駄のない物体。ジャコメッティの人物像。バックミンスター・フラーの人間。普遍のもの。
私を真に魅了したのはこの器だけだ。それは私が器を作る理由ではないが、しかしそれは人とは何かをかいま見せてくれる。
私の関心は、実験や探検にあるのではなく本質を引き出すことにある。ろくろは簡潔さを要求し限界を決定づけ、勢いと連続性を与える。単純なテーマで連続したヴァリエーションを作ることに集中する時、私はその工程の一部になっていく。私は今-このすばらしい世紀に-存在するという体験に共鳴しうる感度を持った道具を学び始める。
その目的と機能に関してはあいまいに語られるクラフトというものに取り組む時、人は不条理に直面することがある。まるで取り憑かれたピアノの調律師のように、何よりもまず幻の絶対音程に近づこうとするのだ。そして消え去ってしまう見せかけの理念に逃避しがちだ。しかしそれでもなお、習慣となった仕事は残る。人は現実に取り組む。
アール・ブリュット
NHKの日曜美術館で、現在パリで開催されている「アール・ブリュット ジャポネ展」の模様とその作家たちが紹介されていました。
アール・ブリュットは、「生(き)の芸術」という意味のフランス語で、美術的な専門教育を受けず、独自の感性で創作する人々の作品をさすそうです。また、創作の動機は芸術家としての名声を得るためでなく、自発的であることから、表に出ることは少なかったようです。
紹介されていた作家は、知的障害や精神障害の人が多く、自分の内側から生まれる衝動のままに、画材がなくなってしまうのではと思うほど、ひたすら色を塗りつぶしている姿や、点描で隙間なく描き込んでいる創作風景からは、ものすごい集中力を感じ、その場に100%身をおいている、全身全霊で制作している作家の様子が見られました。
作品はどれもとても独創的なのですが、懐かしさを感じるものもあって、人間の普遍的な創造の形、表現というものがあるように思いました。
イコンのように見える絵や、何かの儀式のときに使われそうなやきもの…。
こちらを捉えて離さないエネルギーで、そのまま深いところに引きずり込んでいくような作品たち。
テレビやインターネットの画像からでもそれを感じられるので、実際の作品を観て全身で感じたいと思いました。
パリの展覧会は来年1月2日までなので、その後の日本での開催を期待したいと思います。
アール・ブリュット ジャポネ展 公式サイト
http://www.art-brut.jp/
スピリット・アート・ミュージアム
http://www.spiritartmuseum.jp/index.html
ボーダレス・アートミュージアム NO-MA
http://www.no-ma.jp/
アール・ブリュットは、「生(き)の芸術」という意味のフランス語で、美術的な専門教育を受けず、独自の感性で創作する人々の作品をさすそうです。また、創作の動機は芸術家としての名声を得るためでなく、自発的であることから、表に出ることは少なかったようです。
紹介されていた作家は、知的障害や精神障害の人が多く、自分の内側から生まれる衝動のままに、画材がなくなってしまうのではと思うほど、ひたすら色を塗りつぶしている姿や、点描で隙間なく描き込んでいる創作風景からは、ものすごい集中力を感じ、その場に100%身をおいている、全身全霊で制作している作家の様子が見られました。
作品はどれもとても独創的なのですが、懐かしさを感じるものもあって、人間の普遍的な創造の形、表現というものがあるように思いました。
イコンのように見える絵や、何かの儀式のときに使われそうなやきもの…。
こちらを捉えて離さないエネルギーで、そのまま深いところに引きずり込んでいくような作品たち。
テレビやインターネットの画像からでもそれを感じられるので、実際の作品を観て全身で感じたいと思いました。
パリの展覧会は来年1月2日までなので、その後の日本での開催を期待したいと思います。
アール・ブリュット ジャポネ展 公式サイト
http://www.art-brut.jp/
スピリット・アート・ミュージアム
http://www.spiritartmuseum.jp/index.html
ボーダレス・アートミュージアム NO-MA
http://www.no-ma.jp/
色と遊ぶ


夫が仕事の関係で色のワークショップを開くことになり、時間配分などの確認のために試しにやってみました。
大きな1枚の紙に「喜怒哀楽」を色で表現。と言っても感情移入はあまりしないで赴くままに色を重ねていったという感じです。
その後、四角くくり抜いたプレートを使って、気に入ったところをカットし、それを自由に組み合わせて、白いボードと黒いボードに貼ったものが上の写真です。
色を塗る、カットする、そして並べることも、ほとんど頭を使いませんでした。
最終的には並べた色の紙をテープで貼って仕上げるので、その時に向きや重なりを調整しようと思っていたのですが、実際にはほとんどが最初に並べたままがよかったので、頭を使わないことはスゴいことだな~と思ってます。
とは言っても、組み合わせや並べ方に正解があるわけでもなく、自分がいいと思ったものを人がいいと思うかはわかりません(笑)
また、配置するときのテーマはなく、なんとなく好きに並べていっただけです。
なのに、自分の中の絶対ここ!この向き!という配置があることは不思議です。
今の自分にぴったりとくる配置があるのでしょう。
こんなふうに自由に絵を描く機会は少なくなってしまい、またどこかに「うまく描きたい」、「きれいに見せたい」などという気持ちが入ってきてしまうのですが、そんな気持ちも頭もからっぽにして色と触れ合うことができた自宅でのワークショップは、予想以上に楽しいものでした!(笑)
色を重ねて濁ったと思うところもあるけれど、それはそれの美しさがある。
じーっと見ていると、深いところにひきこまれていきます。。。
色ってほんとにスゴい!です。